巖邑府誌/串原

提供: 安岐郷誌

沢中も併せる。

串原併澤中

目次

串原

串原は小田子の西、河の北側にある。民戸は350余り。沢中は僅か3戸。小田子から川が西に折れ串原に注ぐ (西側の岸は三河に属する)。この村は多くの峰や高い峠の谷間に土地がある。村が串に連なっているようであるため串原と名付けたものである。また仮に借字を用いて櫛原とも書く (櫛と串はどちらもクシと読む)。この住民は(こうぞ)を漉き紙を作っている。精巧で最も良くできている。人々は誠実で素朴、昔の風である。

○串原在小田子西沿河北自小田子而河 ※1
水西折泻于串原西岸地属于参河 其為邑也衆峰
高峠渓間有壤原民因為邑相聯串故名串
原也又用假借字作櫛原櫛与串國訓皆久志其民漉
楮為紙最精好風尚敦朴近古之俗

※1 民戸三百五十餘沢中厪三戸

中山神廟

中山神社

中山神廟は村の宗社で村の中央にある。村落はその下を廻っている。(川の東から) 福原 (里社有り)、森上 (里社有り)、大竹相走(あいばしり)大野船渡(ふなと) (里社有り)、漆畑 (ダム湖水没)釜井 (ダム湖水没)閑瀬(しずらせ) (閑羅瀬) (里社有り)、大簗 (里社有り)、河渡 (川ヶ渡) は全て川岸に沿っている。中沢 (里社有り)、松本岩倉 (里社有り)、松林大平 (木根)柿畑は全て高原に村を作っている。小田子から近いものはわずか数里、遠いものは20里 (約11km) 以上に及ぶ。

戸中久木 (ダム湖水没) も部落である。鹿背という所は細い道があって松本に通じている。漆畑と釜井の間に石岑という絶壁があり断崖に老松が立っている。非常に奇妙だが気に入っている。久しく立っている。

柿畑に砥堀という名の場所がある。砥石と雲母を出すがどれも質は良くない。松本の境から山に入った二里先に大田代という部落がある。1民戸ある。話によれば夜に害獣が出て田畑を荒らすため一晩中眠らずに声を上げて退けていると。この顔を見てみると赤眼で高い声を上げられずその状態は憐れである。

峯の傍らに大鋸場という林がある。大名の林である。

○中山神廟在邑之中央邑中以為宗社而
村落繞其下曰福原有里社 曰森上有里社 曰大
竹曰相走曰大野曰船渡(フナト)有里社 曰漆畑曰釜 ※1
井曰閑瀬(シツラセ)有里社 曰大簗有里社 曰河渡皆沿河
岸者也曰中澤有里社 曰松本曰岩倉有里社 
松林曰峯曰大平曰杵曰柿畑皆邑於髙原
者也近者距小田子僅數里遠者延二十餘

※1 戸中久木亦落也有名鹿背者有細径通松本漆畑与釜井間曰石岑有絶壁臨碧潭老松立断岸蚩竒絶可愛不可久立也○柿畑中有名砥堀者出砥石及雲母皆為下品 / ※2 去松本界入山二里有名大田代者部落也有民戸一語余曰山獣夜出害田圃終夜不眠揚声而退之視其面赤眼不能為高声其状可憫○峯傍有大鋸場林為侯家林

合渡城墟

合渡城墟[MAP] (太平城) は峯、大平の村山にある。別名中山城とも言い串原本城とはこれである[1]。言い伝えによれば天正の始めに遠山与五郎という者がこの城を守っていたという。武田氏の兵が三河に入ったと聞きつけて、城を捨て逃げ去り慌てふためいてつまずき落馬した。この事からこの地は馬伏と名付けられた。

その後与五郎は岩窟に隠れ、猟師がその入り口に居座って守っていた。追撃者はこれを怪しんで、岩窟の中に人が居るに違いないと入り口について様子を窺っていた。与五郎は逃げられないと覚悟を決めて岩窟から自ら撃ってこれを斬る。ついに出て戦い死んだ。甲斐記に書かれている晴近、遠山与五郎を破るとはこの事である。

美濃諸旧記によれば串原城主串原弥左衛門親春が居り、天正2年 (1574年/安土桃山) 2月2日に武田勝頼が落としたという。

また、与五郎が出て降りた後に高遠子城 (現在遠山の地名がそれである) を守ったとも云う (江儀遠山氏の事か?)。天正10年 (1582年/安土桃山) に高遠が陥落して乱兵に殺された。その子孫は投降したため系譜が続き祖先を祀っているという。これが本当のことなのかどうかは分かっていない。

また閑瀬の南に川を隔てて古い城墟がある。伝えによれば遠山弥左衛門が守っていたという。武田勝頼が城を落とし遠山弥左衛門を生け捕りにしたというのはこの事であろう。城が落ちるとき、その将である大嶋与市なる者が牛に乗り淵に身を投じた。この事から与市淵という。つまり現在村人に堀、大嶋、中垣、三宅の四氏が有るのは皆串原氏の子孫である。

  1. ^ 柿畑の城跡[MAP]も串原城と呼ばれている。どちらが本当の串原城かは分かっていない。

○合渡城墟在峯大平之邑山一名中山城
串原本城是也傳言天正初遠山與五郎者
守之聞武田氏兵入参河口棄城遁去倉皇
蹶而墜因名其地曰馬伏既而與五郎隠於
岩窟有猟狗從之守窟口不敢去遂者訝之
以為窟中必有人也就門窟口覘其動静與
五郎自知不免撃自窟中而斬之遂出戦以
死乃甲斐記所謂晴近破遠山與五郎是也
或曰與五郎出降後為守髙遠子城今有地名遠山
是也
迨天正十年髙遠陥而為乱兵所殺其子
孫歸順故至今血食不絶未知孰是也又閑
瀬南隔河水有故城墟傳言遠山弥左衛門
所守也盖称勝頼拔城擒遠山弥左衛門是
也迨城陥其将大嶋與市者騎牛自殺淵遂
死故名曰與市淵云即今邑人有掘大嶋中
垣三宅四民皆串原氏家臣之裔也

※1 美濃諸𦾔記曰串原城主串原弥左衛門親春居之天正二年甲戌二月二日武田勝頼抜之

左靱右刀

左靱右刀(ひだりうつぼみぎがたな)は閑瀬、釜井の間にある川岸の狭い道である。ここを通ろうとする兵士はまさに、東へ向かえば右に刀剣を携え、西へ向かえば弓(うつぼ) (矢を入れて腰や背中に付ける筒状の道具) を左に負わなければ通過出来ないという事で地名になったものである。

○左鞬右刀閑瀬釜井之間河岸峽道之名
也蓋軍人過此者東向則帯刀劍於右西向
則負弓鞬於左不然則不能過之遂呼為地
名者也

黄梅院

香林山黄梅院は杵村にある。開基は分かっていないが寛永9年 (1632年/江戸初期) に僧宝山が再建し代々黒衣僧が居る。昔は串原氏の牌子が閣にあったとも云う。元は串原氏の建てたものなのかもしれない。

○香林山黄梅院在杵村開基未審寛永九
年僧寶山再造之黒衣僧世居焉或曰串原
氏牌子𦾔在閣中疑本串原氏之所建也

沢中

沢中 (中沢) は串原の北で間を明知領 (高並峯山 (高根山)) が介している。この土地は偏狭で狭く2、3の民家があるのみである。とりあえずここに付け加えておく。

山に垂糸栗が数株ある。枝垂れに実を結び気に入っている。

○澤中在串原北介於明知領高並峯山其地山
間僻陋而有二三之民屋耳姑附之

※1 山有垂絲栗数株垂枝結子可愛


Kisokaido45a Nakatsugawa.jpg
古文書の翻訳: このページは巖邑府誌を現代語に翻訳したものです。より正確な表現を知るためには原文を参照してください。文中の(小さな薄い文字)は訳註を表しています。

外部リンク

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ツールボックス
Sponsored Link