天保の丹羽瀬騒動

提供: 安岐郷誌

(丹羽瀬清左衛門 から転送)

天保の丹羽瀬騒動(てんぽうのにわせそうどう)は岩村藩の財政改革で起きたお家騒動。このページでは騒動の原因となった文政の改革も併せて記述する

目次

背景

1824年 (文政7年/江戸後期)、岩村藩の財政は極度に悪化していた。この頃の岩村藩は:

などを行っており、財政政策として御神木すら手を付けようという困極まった状況であった。槙平の開墾が同年に始まったのも財政再建のための事業と思われる。

岩村藩 文政の改革

1826年 (文政9年/江戸後期)、弱冠21歳で松平乗美(まつだいらのりよし)が領主となった。しかし藩の財政は窮乏を極めており、先代からの家老であった丹羽瀬清左衛門(にわせせいざえもん)はこれを機に藩の財政難を打開すべく改革に乗り出した。「国産に関する意見書」を提出し国産所を創設するなど、岩村藩の産業振興を改革の要としたようである。

このような厳しい改革の功あって藩の財政も次第に回復して行った。またこの改革によって阿木・飯沼を含む岩村藩内の農家に養蚕が広まり、岩村城下で昭和初期まで続く絹織物産業が発展するきっかけともなった。

改革の顛末

清左衛門の改革によって藩財政もそれなりに回復していったが、程なくして天保の大飢饉 (1833年/天保4年)、翌天保5年の江戸藩邸の類焼、さらに天保7年の大凶作などに見舞われた。これに伴う不景気で陶器や木綿、絹織物などにおいて大量の在庫を抱える結果となり、織物事業で24,000両もの巨額な負債を抱える事となった。財政改革は完全に停滞してしまった。

加えて折からの保守派閥からの反発や、領民の不満、減俸された家臣の不満がこの不況を機に爆発。1837年 (天保8年/江戸後期) に藩内52村連名で21ヶ条の嘆願書を上告し、もし聞き入れられなければ清左衛門宅を襲撃しようと誓った。藩主はこれを受け入れて丹羽瀬清左衛門は失脚、蟄居の身となり、これで岩村藩の文政の改革も終了した。

清左衛門はこの騒動の一年半後となる 1839年 (天保10年/江戸後期) 2月4日に51歳で没した。

四方山話

参考資料

参照

外部リンク

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